韓国の海洋英雄

廣開土大王

廣開土大王
(374年-412年、在位 391年-412年)

西洋の歴史で天才的な知略と人術で大帝国を建設したアレクサンドロス大王のように韓国の歴史の古代にも全世界のすべての国まで影響力を拡張しようとしていた偉大な王がいます。高句麗の廣開土大王です。

 

廣開土大王は韓国の五千年の歴史の中で一番強盛な国であった高句麗を代表する王であり、18歳に即位し、39歳にお亡くなるまで21年間高句麗を東北アジアの最強の国家に作りました。全世界に向かう廣開土大王の偉大な夢と業績は彼の碑文に記録されています。

 

「王の恵みが空まで至り、威厳は満天下【四海】に馳せた。悪い群れを掃き無くすと、百姓がみんなで生業に精を出し、気楽に住むことができるようになった。国は富強で豊かになり、あらゆる穀物がぎっしり熟した。」

 

特に廣開土大王は約4万名の巨大な水軍を直接に指揮し、戦争を遂行するほど強い海軍力を保有し、海の重要性を誰よりも良く知り、海洋の政策を国家の経営に活用した王でした。廣開土大王の碑文には「廣開土大王6年(396年)には王が自ら水軍を導き、百済を討伐し、百済の国城を巻き、攻撃した」と記録されています。

 

廣開土大王は大陸と海洋を連結する東北アジアの最高の地理的な長所を国家の成長の梃子にし、高句麗を軍事、外交、貿易、文化などのすべての領域で五千年の韓国の歴史上一番強力な国家でそびえ立つようにしました。高句麗の人々は高句麗が世の中の中心であり、高句麗の王は天の子だという大きくて高い夢を抱いて生きました

近肖古王

近肖古王

(?-375、在位 346年-375年)

韓国の古代の歴史の中で海の向こうに中国と日本に大きい影響を与えた王がいます。百済の第13代の国王で海を国家の経営の舞台にし、百済を海洋の文化の大国に成長させた近肖古王です。古代の中国と日本の多くの歴史書には近肖古王の時期に百済が強力な海軍力と優秀な航海術を基に韓半島を越え、中国と日本まで影響力を大きく拡大した内容があります。

 

代表的には中国の歴史家である沈約が488年に執筆した『宋書』によると、「百済は遼西郡をほぼ支配した。百済が根拠地としたところは晋平郡の晋平県である」という記録があります。今日日本の国宝で指定された七支刀も百済の近肖古王の時期に日本に贈り物をしたものであり、以前にはなかった珍奇なものだと日本の王が感嘆したという日本の記録があります。七支刀は長さ75センチメートルの鉄製の刀で、左右に七つの刃がまるで茄子のように見え、百済の燦爛な文化の力量を示す精巧な金属技術が集約されています。

 

百済の近肖古王は百済を中心に中国の遼西、山東半島と日本に至る韓・中・日の海路の開拓を主導し、海を活用して東北アジアの国際関係を能動的に主導し、百済の歴史上一番燦爛な歴史を作り出した王です。

 

中国と日本の所々には韓半島を中心に大陸と海洋を連結し、海路を開拓し、燦爛な文明を作り出した百済の偉大な文化遺産が残っています。

異斯夫

異斯夫

(6世紀)

異斯夫は西紀512年に東海の于山国(現在の鬱陵島)を新羅の領土に編入し、新羅の歴史上最初で海洋の領土を開拓した偉大な将軍であり、政治家です。

 

異斯夫は10第に将軍になり、70代の後半まで戦場で活躍した勇ましい軍人であったり、22年間新羅の国防の最高の責任者である兵部令で活動し、新羅が三国統一を果たし、千年王国で世界史に聳えるように大きく寄与しました。韓国の古代の歴史書である『三国史記』には戦争で戦わずに于山国を征服した異斯夫の英雄的な物語が記録されています。古代の于山国は今日の鬱陵島と独島を囲んでいる東海を支配していた海上の国家でした。

 

異斯夫は木でライオンを彫り、軍艦にぎっしり載せて東海を渡り、于山国に向かいました。到着の後に彼は木のライオンを于山国の人々に見せ、「お前たちがもし下らないとこの猛獣を放し、踏んで殺すぞ!」と脅迫しました。生まれて初めて怖いライオンを見て、恐怖心に襲われた于山国の人々は結局戦う意志を失い、下りました。

 

新羅の異斯夫将軍の優れた知恵で于山国は新羅の領土に編入され、以降に新羅は東海の海上権を掌握し、海の向こうの日本の侵略に先制的に対応しました。異斯夫は今日の韓国人たちに「東海の王」と呼ばれる海に向かって進取的に挑戦し、開拓し、国家が進む方向を提示した人物です。

文武大王

文武

(626年-681年, 在位 661年-681年)

韓国の古代の歴史書である『三国遺事』には「私が亡くなれば土に埋めず、遺骨を火葬し、東海に埋めろう!東海の龍になり、亡くなっても国を守る」という遺言を残した偉大な王の物語があります。彼は文武大王です。

 

文武大王は千年の歴史で世界的に有名な新羅の王国の第30代の王で(在位661年‐681年)、五千年の韓国の歴史上最初に海洋の行政機関である船府を設立し、海と船を組織的に管理しました。彼は海を通じて積極的に国際交流活動を推進して新羅の影響力を拡大し、高句麗と百済を抜いて三国統一を成し遂げる偉大な業績を達成しました。また、676年に中国の唐が韓半島に対する影響力を強化しようと試みる時に、唐を韓半島から追い出すことに大きい役割を遂行しました。

 

お亡くなっても海で竜になり、新羅を守ろうとする文武大王の遺言は後代に叶いました。731年ごろ日本が300隻の船舶で新羅を侵略しましたが、文武大王が設立した船府を通じて海軍と海運力を育てた新羅は東側の海岸で攻め寄せてきた日本を撃退しました。

 

文武大王は海を国家の発展の原動力で思い、海洋の外交を通じて三国統一を達成し、海洋の戦力を強化して周辺の国の侵略に能動的に対応していた偉大な大王です。

文武大王

文武

(626年-681年, 在位 661年-681年)

韓国の古代の歴史書である『三国遺事』には「私が亡くなれば土に埋めず、遺骨を火葬し、東海に埋めろう!東海の龍になり、亡くなっても国を守る」という遺言を残した偉大な王の物語があります。彼は文武大王です。

 

文武大王は千年の歴史で世界的に有名な新羅の王国の第30代の王で(在位661年‐681年)、五千年の韓国の歴史上最初に海洋の行政機関である船府を設立し、海と船を組織的に管理しました。彼は海を通じて積極的に国際交流活動を推進して新羅の影響力を拡大し、高句麗と百済を抜いて三国統一を成し遂げる偉大な業績を達成しました。また、676年に中国の唐が韓半島に対する影響力を強化しようと試みる時に、唐を韓半島から追い出すことに大きい役割を遂行しました。

 

お亡くなっても海で竜になり、新羅を守ろうとする文武大王の遺言は後代に叶いました。731年ごろ日本が300隻の船舶で新羅を侵略しましたが、文武大王が設立した船府を通じて海軍と海運力を育てた新羅は東側の海岸で攻め寄せてきた日本を撃退しました。

 

文武大王は海を国家の発展の原動力で思い、海洋の外交を通じて三国統一を達成し、海洋の戦力を強化して周辺の国の侵略に能動的に対応していた偉大な大王です。

慧超

慧超 (704年-787年)

1908年、フランスの学者であるポール・ペリオ(Paul Pelliot)が中国からアラブに行く街角である敦煌の千佛洞石仏で役1200年の前に作成されたある巻物の文書を発見しました。『往五天竺國傳』というこの文書は古代韓国の歴史の中で新羅の僧侶である慧超(ヘチョ)が海路で印度を訪問した経験を込める韓国の歴史上最初の海外旅行記です。『往五天竺國傳』はマルコ・ポーロ(Marco Polo)の『東方見聞録』、ポルデノーネのオドリコ(Odoric of Pordenone)の『東方紀行』、イブン・バットゥータ(Ibn Battuta)の『旅行記』と一緒に世界4代旅行記と呼ばれるほど世界的に価値と意味が大きい重要な旅行の記録です。しかし、中国で発見された『往五天竺國傳』が韓国人である慧超が書いたもので現れた理由は何でしょうか。インドの旅行の中で自分の故郷を懐かしむ内容が収めた「誰が便りをために新羅(鷄林)に飛び行くか」という句です。

 

このように慧超は韓国人としては最初に海路を渡り、インド、アラブ、中央アジアを旅行した世界人であり、故国に向ける切実な懐かしさを旅行記に残るほど韓国人の正体性を胸深く秘める韓国人でした。慧超が故国である新羅を去り、中国の唐に行った時期は16歳の若いの年齢であった時です。以降に慧超は中国の首都である長安を去り、国際貿易港で知られていた光州(クァンジュ)で船に乗り、インドに至り、ペルシアを渡り、中央アジアなど世界の所々を旅行しました。当時に海路を通じてインドに行く道は死を覚悟するほど大変な旅の道でした。

 

死を覚悟しながら海路を通し、世界を旅行することが可能であるのは真理を探そうとする青年である慧超が持っている高い夢、他の国の歴史と文化に対する幅広い理解、そして恐れを打ち勝つ海洋の開拓の精神があったからこそ可能だったのです。慧超は韓国人としては最初に海路を渡り、インド、アラブ、中央アジアを旅行した真の世界人です。

張保臯

張保臯 (?-846)

韓国では毎年5月31日は海の日という法廷記念日です。この日は韓国の歴史の中で偉大な海の英雄、張保臯(チャン・ボゴ)が淸海鎭を設置したことを記念する日です。

 

張保臯は韓国の歴史の中で新羅時代に淸海鎭(現在の全羅北道の莞島郡)という軍事基地を設置し、海の無法者と呼ばれる海賊たちを掃討し、平和で安全な海上貿易を作り出した主人公です。また、淸海鎭を中心に新羅、唐、日本の三国を連結する東北アジアの海上貿易のネットワークを構築し、東南アジアとアラブの国家まで拡張された全世界の数多くの国と貿易を推進し、海の王という評価を受けています。

 

韓国、中国、日本の数千年の歴史の中では数多くの英雄たちがいましたが、三ヵ国の歴史書に記録されている偉大な英雄はありふれていないです。中国の歴史書である『新唐書』には張保臯の勇ましさを紹介しており、中国の唐の最高の詩人で評価される杜甫は張保臯が利口で、東方で一番成功した人だと記録しました。日本の僧侶である円仁が残した旅行記録には旅をしている時に張保臯に海路を頼めるほど彼を信頼し、慕っている記録があります。今日の中国の山東半島には中国の政府によって建てられた張保臯の記念館、博物館などがあり、日本では張保臯を神様として挙げる寺があります。 米国の大使を歴任した米国のハーバード大学のライシャワー教授は張保臯を「海洋の商業の帝国の貿易王」だと評価しました。

 

張保臯は海を怖がらず経営し、韓国の歴史上最初の海洋の商業の帝国を建設した世界的な貿易王です。

王建

王建 (877年‐943年、在位918年‐943年)

韓国の古代の歴史書である『高麗史』には海を通じて力を伸ばし、統一国家の指導者で突っ立つ王の物語が登場します。今日の大韓民国の英文の名前であるコリア(KOREA)の根源である高麗を建国した王建(ワン・ゴン)の德津浦海戦の話です。

 

912年、地理的に重要な拠点である德津浦で王建は敵の軍隊と重要な戦闘を前にしました。しかし、王建を従っていた部下たちは敵の力と威勢に恐ろしさに震えながら戦い意志を無くしてしまいました。この時、王建は次のように言いました。

 

「気にするな。戦いに勝つことは数字が多いところではなく、心を一つにまとめることです。」

 

王建は海の風の方向を使い、敵の軍艦に火をつける海洋の作戦を推進し、これを通じて敵の精鋭軍を対象に大勝を収めました。海に対する卓越な知識と知恵を通じて海戦で勝利した王建の名声は速く拡散し、数多くの人々が彼を尊敬し、従うようになりました。以降に王建は自分を従う数多くの人々を一つに集め、今後に高麗を建国するための人的ネットワークを構築し、五千年の韓国の歴史上韓民族を実質的に統合した国家の指導者になりました。

 

知られていなかった一人の海軍の将軍であった王建が次の日に韓国の歴史で偉大な統一国家を建てることができた一番重要な理由は彼が幼い頃から海を通じて偉大な夢を見て、自分の生で海を経営することができる実力を育てたからです。王建は海を通じて力を育て、統一国家である高麗を建国した偉大な王です。

崔茂宣

崔茂宣(1325年‐1395年)

世界の最初の艦砲戦闘とその偉大な勝利が韓国であった事実を知っている人は少ないです。人々は西洋の歴史で最初に火砲を使い、敵船を撃沈した海戦で1571年の欧州同盟とオスマン帝国の間のレパントの海戦を話します。しかし、韓国の歴史の中で高麗時代に西洋のレパントの海戦より191年先立って敵船を火砲を使い、撃沈した海戦があります。それは鎭浦大捷です。

 

1380年、役1万名以上の日本の兵士は500隻に至る艦隊を導き、高麗を侵略しました。この時、高麗の水軍は100隻の艦船に設置された火砲を発射し、大方の敵船を破壊し、戦闘で勝利しました。

 

鎭浦大捷で歴史に記録されたこの戦いは艦砲戦で展開された世界の最初の海戦です。韓国の古代の歴史書『高麗史』の記録によると煙と炎が空を包み込み、船を守っていた敵兵はほぼ焼け死んで、海に飛び込んで死んだ者も少なくなかったという記録があります。

 

100隻に過ぎない高麗の艦船が500隻に至る日本の軍隊を向き合い、大勝に収めた理由は艦船に火砲を設置しようとし、戦闘で勝利させた崔茂宣(チェ・ムソン)がいたからです。高麗時代の科学者である崔茂宣は韓国の歴史上最初で火薬を開発し、火薬を利用した武器の開発を主導し、以降に高麗と朝鮮の水軍の力を強力にし、海からの敵の侵略を防ぐことに大きく寄与しました。崔茂宣は艦船に火砲を設置して海を守り、国を守った偉大な科学者です。

李舜臣

李舜臣(1545年‐1598年)

「臣にはまだ12隻の船があります!」

 

これは朝鮮時代に日本と戦争をしている間に李舜臣(イ・スンシン)将軍が王に報告した言葉です。

 

当時に彼が全力を尽くして育成した海軍と多くの艦船は彼の代わりをする他の将軍が導いた戦闘で日本軍によって無惨に破壊されました。これに王は李舜臣将軍に海軍を解散し、陸軍に入隊するよう命じました。しかし、李舜臣将軍は敵に海を奪われると国の全体を奪われる恐れがあるとし、今自分にあげられた12隻の船で戦闘に出ると王を説得しました。自分に向けた政権と最高の統治者の裏切りにも関わらず、国を守るために海に離れた李舜臣将軍と彼の部下たちはただ12隻の船で330隻に至る敵の艦隊に立ち向かい、勝利しました。

 

鳴梁大捷と呼ばれるこの奇跡のような勝利は朝鮮の歴史だけではなく、全世界の海戦の歴史でも見ることができなかった偉大な勝利でした。李舜臣将軍は16世紀末に朝鮮の領土と生を破壊した日本の侵略の戦争であり、東アジアの最大の戦争である壬辰倭亂で海の上で23戦23勝という記録を立って残酷な戦争を終結し、アジアの平和を取り戻しました。

 

彼の奇跡のような勝利の背景には彼が戦争に先立って高度に訓練された水軍を養成し、最先端の突撃船を建造し、海で日本軍を撃退する戦術を研究したからです。特に彼は当時には不可能だと思われた艦船上での砲です。撃の戦術を完璧に駆使し、戦争を勝利に導き、今日世界の海戦の歴史家たちの研究の対象になっています。李舜臣将軍が海を守り、国を救い、アジアの平和を作り出した海の守護者です。

安龍福

安龍福

大韓民国の東海にある島である独島は東島と西島で分けられますが、この中で西島は朝鮮時代の漁師である安龍福(アン・ヨンボク)の名前を反映し、「独島の安龍福道」と呼ばれています。韓国人たちが一番愛する島である「独島」の住所名に登場する安龍福は朝鮮時代に公式の歴史書である『肅宗實錄』にも登場します。

 

今日韓国人たちは安龍福を当時に彼の身分であった平凡な漁師ではなく、海軍の将軍だと唱え、彼を尊敬しています。それでは、なぜ韓国人たちは韓国人たちが一番愛している独島に名前を取った住所を反映し、海を守る最高位職である海軍の将軍まで呼ぶほど彼を尊敬しているのでしょうか。安龍福が身分を超え、朝鮮の海と領土を守った人物であるからです。

 

安龍福は鬱陵島、独島の近隣で海産物を採取している間に不法で操業をしている日本人たちを見て、ここは朝鮮の海なのですぐ帰るよう強く要求しました。これに日本人たちは安龍福を拉致し、日本の官僚の前に連れて行き、罰を下すよう要請しました。しかし、安龍福は過ちが朝鮮の土を海に不法で侵入した日本人にあり、日本の官僚に抗議し、結局に日本の官僚は「鬱陵島と独島は日本の土ではない」と認める外交の文書まで作成し、彼を朝鮮に帰らせました。

 

以降には安龍福は鬱陵島に不法で侵入し、操業をしている日本人たちの行為に怒り、これを防ぐために直接に日本に渡り、日本の官僚に強く抗議しました。そして遂に日本の政府は1696年に日本の漁師たちにとって二度と鬱陵島に行けないように「渡海禁止令」という行政措置を下しました。安龍福は平凡な漁師の身分で鬱陵島と独島を守っていた偉大な将軍でした。

独立運動家 済州海女会

独立運動家 済州海女会

2016年、韓国の海洋水産部で五千年の韓国の歴史の中で海洋の英雄17名を選定し、発表しました。17名で選定された海洋の英雄の中で大部は国を建てた王、敵の侵略から国を守った将軍など広まった有名な人物であり、また男性でした。ところが、この中で雄一に女性の団体である済州海女会が含まれ、選定の当時に話題を呼びました。

 

済州海女会が韓国の歴史を代表する海洋の英雄で選定された理由は彼らが日帝強占期であった1932年、奪われた国の海洋経済の主権を探すために先頭に立てたからです。当時に日本の政府の後援を受ける日本の会社は済州の漁場を焦土化させ、海産物をむやみに低い価額で仕入れ、海女たちの経済活動を麻痺し、彼らの生存を脅かしました。

 

海女たちに向けた日本の収奪が極まると、金玉連(キム·オクリョン)、高且童(コ·チャドン)、金啓石(キム·ゲソク)、夫德良(プ·ドクリャン)、夫春花(ブ·チュンファ)など海女の代表5名は済州島の海女の漁業組合に属する数千名の海女たちと一緒に日帝の侵略性と不法な弾圧を知らせる大大的な抗日運動を展開しました。済州海女会の抗日運動は役1万7千余名が参加した済州地域の最大な規模の抗日運動に発展し、女性が主体になり、奪われた国の海洋経済の独立を取り戻すために闘争したという点で大きい意義があります。