より良い未来

地理的に、歴史的に、文化的に近くて遠い隣国である韓国と日本。

両国間の外交関係が複雑な状況に置かれている今現在、
韓国と日本の両方の未来志向的発展のために
皆さんが今しなければならないことは何でしょうか?

ここに、歴史の中で韓国との友好増進と人類社会の発展を図り、
正しい歴史認識を築くために努力した日本人たちがいます。

時代的状況はもちろん、言語と文化を超えて
21世紀の世界市民社会で
韓国と日本が進むべき方向を先知的に提示した人々について調べ、
より良い未来を成し遂げるために
皆さんができることが何か考える切っ掛けになることを願っています。

金忠善 (沙也加)

金子文子

布施辰治

浅川巧

大川常吉

曾田嘉伊智

尹鶴子 (田内 千鶴子)

林えいだい

保坂裕二

ミキ・デザキ

金忠善 (沙也加) 1571-1642, 壬辰倭亂当時朝鮮に帰化した日本軍の将帥

「イメージ出所」KBS歴史ジャーナルあの日

「イメージ出所」KBS歴史ジャーナルあの日

「今、私が帰化しようと思うのは、知恵が足りないからでもなく、力が足りないからでもなく、勇気がないからでもなく、武器が鋭くないからでもありません。私の兵士と武器の強さは、百万の軍師に立ち向かうことができ、計画の緻密さは千の城郭を崩すに値します。まだ一度の戦いもなく、勝負がなかったので、どうして強弱に負けて和を講うのでしょうか。ただ私の願いは、礼儀の国で聖人の民になろうということだけです。」

-『慕夏堂文集』卷1、講和書の中から

 

「あ、東土(朝鮮)の大小民、皆私の曉諭を聞いた後、安堵することは昔と同じく、動揺せず、仕事に没頭し、散らばるな。今我々は異国の人誰も、先鋒将誰も自ら本国であなた達の国を攻撃しないと既に心の中で誓いました。我々は侵略するつもりはなく、元から東土の礼儀を聞いて長い間東土の文物を慕い、一度これを見たいと思い… (中略)万一、一人の百姓でも害をするとつまり、ただ一生の思いを破るだけでなく、また天に罪を犯すことですから、どうして私達にそんなことができるんですか。」

- 『曉諭書』の中で

金子文子 (1903-1926)

慶尚北道( キョンサンブクド)聞慶市(ムンギョンし)の独立運動家、 朴烈(パク・ヨル)義士記念館には韓国の独立運動に参与した日本人の女性の墓があります。

この墓の主人は金子文子(かねこ ふみこ、1903~1926)です。彼女は朴烈の同志であり、妻として韓国の独立運動に参与しました。

金子文子は1903年横浜で生まれ、親の無関心の中で育てられ、1912年9歳の時に、忠清北道(チュンチョンプクド)清州市(チョンジュし)の伯母の家で7年を過ごしました。
彼女はこの時自分のように虐待される植民地の韓国人について深く共感するようになりました。

特に1919年に直接目撃した3.1運動に大きい感銘を受けました。

「1919年にあった朝鮮の独立の騒擾の光景を目撃した後、私自身にも権力について反逆的な気運が起こり始め、朝鮮の側で展開している独立運動を考えると他人のことだと考えられないくらいほどの感激が胸に強く迸ました。」
_『裁判記録』20ページ

日本に戻れ、東京で苦学した金子文子は1922年2月、朴烈と会い、日本の帝国主義に反対する活動を一緒にやりました。
彼女は人参の行商をやり、朴烈と一緒に雑誌を発行し、日本の社会に韓国人の声を伝えました。
そして1923年4月、韓国人と日本人の無政府主義の運動家を集め、団体を組織しました。

「日本の社会で酷く誤解されている【不逞鮮人】が果たして無闇に暗殺、破壊、陰謀を謀むものであるか、それとも飽く迄自由の念に燃えるって居る生きた人間であるか…」
_金子文子と朴烈が刊行した「太い鮮人」第1号

当時、日本の帝国主義者は自己の言葉に従わない韓国人を不逞鮮人で区分し、差別と迫害をしました。

1923年9月3日、金子文子と朴烈は日本警察に検挙されました。
日本の関東地域に大震災が発生し、混乱の間に日本の軍人、警察、自警団が6千名に超える韓国人を虐殺し、大量で検挙しましたが、平常に特別に監視していた金子文子と朴烈も逮捕したものです。

韓国人の虐殺を正当化することができる名分を探していた日本政府は調査中に金子文子と朴烈の爆弾の入手の計画が知られ、彼たちを大逆事犯で起訴しました。

10月20日『大阪朝日新聞』報道
「地震中の混乱に乗じ帝都で大官の暗殺を企てた不逞鮮人の秘密結社大検挙」

日本政府は幾度金子文子に転向を勧めましたが、天皇制に本気で抵抗した彼女は自分の意志を曲げませんでした。
彼女は1926年2月26日、東京大審院の法廷で朴烈と一緒に韓服を着て出て、依然とした態度で裁判に臨み、3月25日死刑が宣告されると万歳を唱えたりもしました。

金子文子は死刑の判決の以降無期懲役で減刑され、宇都宮刑務所の栃木支所に移監され、投獄生活の苦しみを経験している間、1926年7月23日殉国しました。
刑務所の共同墓地に埋葬された彼女の死体は布施辰治(ふせ たつじ)など同僚たちが発掘し、 朴烈の家族に渡され、韓国の土に葬られました。

布施辰治 (1880-1953), 人権弁護士、社会運動家

対日抗争期に韓国人たちが
「我々の弁護士」と呼んだ
日本人の弁護士をご存知でしょうか。

彼は布施辰治(ふせ たつじ、1879-1953)です。

布施辰治は1879年日本の宮城県牡鹿郡で生まれ、1899年に東京明治法律学校に入学し、勉強した後、1903年に弁護士になりました。

社会問題に関心が多かった彼は日本帝国の朝鮮への侵略にも関心を持ち、1911年『朝鮮独立運動に敬意を表す』を執筆し、検事局の調査を受けることもありました。

布施辰治の初めの韓国人への弁護は2.8独立宣言の主導者の弁護でした。

1919年2月8日、日本の韓国人留学生たちが集まって韓国の独立を宣言すると、日帝は主導者を逮捕しました。
布施辰治はこの人たちの第二審の裁判の弁護に参与しましたが、他の日本人の弁護とは違い、韓国人の観点で独立運動の正当性を擁護する弁護をしました。

「日本はチェコの独立を保護するためシベリアに出兵しながら、なぜ朝鮮の独立運動を支援していないか。」

独立運動家朴烈(パク・ヨル)と金子文子(かねこ ふみこ)を弁護しました。

 

1923年9月1日、日本の担当地方で大震災が発生した間、日本の軍隊と警察、自警団によって6千名の朝鮮人が虐殺されました。
無作為の取り締まりで6千名の朝鮮人が検挙されましたが、その中には朴烈と金子文子、不逞社の同志16名も含まれました。

朴烈の事件を報道した『大阪朝日新聞』の号外

日本の政府は虐殺の責任を免れるように朴烈と金子文子を日王の暗殺の企てのぬれぎぬを着せ、大逆罪を犯した事犯で起訴しました。
布施辰治は自発的に彼達の弁護を無料で引き受ける一方、弁護の過程で獄中にご亡くなった金子文子の遺骸を拾い収めて自分の家に安置した後、 朴烈の故郷に葬りました。

全羅南道(チョルラナムド)の羅州市(ナジュし)宮三面の土地事件を調査し、弁護しました。

日帝は韓国に東洋拓殖株式会社を設立し、韓国の土地と資源を収奪しました。これに立ち向かい、全羅南道の羅州の農民たちは土地回収運動を開き、布施辰治に訴訟を依頼しました。
1926年3月、布施辰治は韓国を訪問して事件を調査し、4月日本で調査結果を発表しました。

当時日帝は植民地の韓国の農業が改善されたと宣伝し、経済的に植民地支配を合理化させたが、布施辰治はその虚構性を批判しました。

「彼ら(日本)が誇る朝鮮の農業の発達が果たして朝鮮の無産階級にためのものであれば、農業の発達のために朝鮮の無産階級の農民の生活が時代に良くなるべきである。
しかし、実際の生活が更に大変になる理由は何でしょうか。」

羅州市宮三面にある抗日農民運動記念碑には韓国人の農民のために弁護した「日本人の弁護士布施辰治」が刻められています。

この他にも布施辰治の韓国人のための弁護と活動は続きました。

1929年 朝鮮人と共に「在日朝鮮人労働産業犠牲者旧宴会」を結成
1930年 愛知県三信鉄道争議事件の調査と朝鮮人労働者の虐待を暴露
1931年 朝鮮共産党日本総局事件の金漢郷(キム・ハンギョン)などの治安維持法違反事件を弁護
1932年 劉宗煥(ユ・ジョンファン)、劉祿鐘(ユ・ノクジョン)の日本高等系刑事殺害事件の弁論に参与 など

光復以降にも彼は阪神教育事件など在日韓国人の弁論を引き受けました。

1953年世を去った布施辰治の葬式には数多くの韓国人が参与し、故人の冥福を祈りました。

生きべくんば民衆とともに、
死すべくんば民衆のために
‐布施辰治の墓碑銘

2004年、大韓民国政府は韓国人と共にした布施辰治に日本人としては初めて建国勲章愛族章を贈りました。

浅川巧 (1891-1931), 陶芸学者

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「浅川巧は、日本の山梨県出身で1914年に日本の植民地支配下にあった朝鮮に林業技師として渡り、朝鮮半島の風土にあった育苗法を開発するなど朝鮮の緑化に尽力しました。」
-  高橋妙子、在日本国大使館 公報文化院長

 

「当時韓国の朝鮮松は2年間育てないと養苗にできませんでしたが、彼が考案した 養苗法のおかげで1年に減らすことができ、2011年基準国内(韓国)人工林の37%に朝鮮松が植えられている。浅川は朝鮮の禿山を青くするものが召命だと信じ、全国を回りながら適切な樹種を選び、植樹を重ね、自然の状態の土を使う【露天埋葬法】方式で朝鮮五葉松の種が芽生える方法を開発した。」

- ソウル新聞、2023年4月5日の記事

大川常吉 (1877-1940), 神奈川県鶴見警察署長

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」
【岡本美砂の日韓ヒューマンドキュメント⑨】
関東大震災で暴徒化した民衆から朝鮮人を守った 大川常吉
KOREA.net 2023年3月9日記事

「よし、諸君がそれほど疑うなら、我輩が此の壜の中味を飲んで見せやう、
さうしたら毒薬か否かが判る訳だ」

- 中島司、『震災美談』40ページ

 

「当時46歳であった大川署長は鶴見警察署に朝鮮人を一人二人保護し始めた。しかし、デマが広まり、部下の警察官も動揺した。大川署長は【朝鮮人たちはすべて良民】だと言いながら説得しましたが、容易ではなかった。動揺が続くと、大川署長は朝鮮人たちを近所にあった寺の本堂に移動させ、この人たちを保護するために30余名の警察官を配置しました。朝鮮人の数が増え続けると、彼はまた警察署にこの人たちを移しました。」

-「井戸に毒?私が飲んで見せる」… 朝鮮人300名を救った日の警察【関東大震災虐殺100年】、The Joongang、2023年9月1日記事

 

曾田嘉伊智 (1867-1962), 宣教師

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」中央日報日本版

「曾田先生は日本人で一生を韓国人に捧げ、キリストの愛を体で表するものだ。1867年10月20日、日本国山口県で出生した。1913年、ソウルで鎌倉保育園を創設し、温かい胸で育った孤児が数千名だ。1919年、独立運動の時には拘束された青年の救護に盡力し、その後80歳まで全国に行き、福音を伝播する。終戦後日本に渡り、韓国についての国民的な懺悔を巡回逆説した。95歳、5月。再び韓国に帰り、鎌倉保育園の場にある氷楽保育園で1962年3月28日長逝し、享年96歳だ。同年4月2日韓国社会団体連合で碑を建てる。…」- 曾田嘉伊智の碑文

 

「1899年ある日、台湾で酔っ払て道を歩いている間に転んでほぼ死にかかる時、彼を気の毒に思ったある韓国人が旅館に負って連れて行き、治療し、食代まで払った。曾田は他人の助けで得られた人生をやりがいを持って生きなければならないと決心しました。
(中略)
彼は新日本を建設しなければならないと主張しました。‘世界平和’と書かれた襷をかけ、片手では聖書を取り、全国を行き、【戦争を起こした日本人が悔悟しなければならない】と叫びました。また、行く先々で日本人が人類に犯した罪を許してくだだいと祈りました。」

- 連合ニュース、2020年11月9日

曾田嘉伊智 (1867-1962), 宣教師

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」KOREA.net

「千鶴子さんの愛情といいますか。そういうものは自分たちには想像がつかないような事をやられているんですね。病気の子供に口移しで果物を嚙み砕いて食べさすなんていうのは考えられない位の事ですよね。亡くなった子供と一緒に綺麗にして一夜を過ごすとかね。そんな事はちょっと尋常ではない。」

- 吉岡郷継(田内千鶴子愛の会 会長)

 

「少しでも田内千鶴子先生の行った事を勉強して
我々がこれから社会に活かしていくと
本当の人間愛とは何かという事を田内千鶴子先生から学んで
そして後世に伝えていきたい若い子供達にもその事をね
教えていきたいと」

- 西森潮三、高知県議会議員

 

「ごく平凡であったかもしれない田内千鶴子が今や世界を動かす女性に
なっているという事はある意味奇跡を感じますよね。」

- 阿部志郎、社会福祉実践家

 

「ユン•ハクチャ女史は亡くなりましたが、私達の胸にはその精神が生きています。
その精神が世界に広まっていると思いますし、
これからもこの精神を活かしていかなければならないと思います。」

- カン•マンジュン、元韓国中央神学大学教授

林えいだい (1933-2017), 記録作家

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」ハンギョレ日本

朝鮮人鉱夫、労働者、特攻隊
軍慰安部
シベリア抑留者
サハリン虐殺の被害者

その生の痕跡を50年に渡って記録
57卷の本で発行した林えいだい

「私は、国家の敵林寅治の子供です。【非国民】の子供なんですよ。」

-韓国のEBS(教育放送)知識チャンネルe ≪私は非国民の子供です≫

 

「… 日本による植民地時代の朝鮮人の強制動員に関する記録約6000点を寄贈されたと発表した。
… 資料は朝鮮人の強制労働や公害問題などに迫る日本の記録作家、林えいだい氏が収集、作成したもので、文書約5000点と写真約1000点に上る。『清算されない昭和-朝鮮人強制連行の記録』(岩波書店)など多数の著作がある林氏は、朝鮮人強制動員の研究のための福岡や北海道など日本各地のほか韓国を訪れ、関連資料を収集した。
… 林氏が強制動員された被害者の遺族を訪ねて撮影した写真や対話記録も寄贈された。」

- 連合ニュース日本版、2017年8月13日

保坂裕二  (1956- ), 大学教授、政治学者

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」korea.net

「(保坂教授は)特に、正しい韓日関係については、【相互理解と友好に基づくことが重要】とし、【両国がお互いの長所を知る必要がある】と強調した。… 【歴史について教育しない日本の教育系は、子孫に過去の韓日関係の歴史を教えなければならない】とした。」

‐korea.net、2019年8月14日記事

ミキ・デザキ (1983- ), 映画『主戦場』監督

「イメージ出所」朝鮮日報韓国版、2023年4月5日記事

「イメージ出所」毎日新聞

「もちろん、我々は日本でまだ告訴されています。起きた一つの大きい事件は私の作品が2019川崎映画祭によって検閲されたことです。その市役所が映画祭に圧力をかけた、映画祭に資金をあげる市役所。彼らは主催者にこの映画の上映を再び考慮するかもしれないと言った、訴訟を彼らが再考慮するべきである理由で使いながら。政府機関は関係がないのにこの訴訟を使って映画を検閲させるとするのは気になります、 まだ評決や何も出ていないのに。」

-『主戦場』を討論する‐日本軍【慰安部】の主な戦場:ミキ・デザキ監督とマーク·ラビンダー·フロスト、エドワード·ビッカースとの対話
Vol.19、Issue 5、No.11、The Asia-Pacific Journal (March 1, 2021)

 

「…韓国の人々と日本の人々の間に情報の差があるものを知ることができた。それぞれの国で得られる情報と聞いている情報が異なるものを知ることができた。そして戦いに帰結した。二時間映画を通じてこのイッシュを取り扱いながら慰安部問題について詳しく紹介する映画を作りたかった。このような紹介を通じて両国の人々が驚いたり、情報を得ることができると、お互いに理解することができるんじゃないか。憎悪が消えるんじゃないか考えた。憎悪が薄れてこそ、両国が生産的な議論をすることができるんじゃないか」と強調した。

- 毎日経済、2019年7月15日の記事